手前後方が踏み切り(旧西2条踏切)方向だそうであり、国立駅(くにたちえき)方向を描いたそうである。
昭和30年代までは絵のように赤松、黒松の林が広がっていた.
画面中央の標識板の奥に引き込み線が国鉄技術研究所(現JR総研)へ通っていた。
現在は中央線も高架となり、その下も全く変わってしまい面影は残っていない.
当時の雰囲気を知りたければJR総研の中の松林をみるのがよいと思う. この絵は、 父が庭の植木(聞いたと思うが木の名前は失念した)を忠太さんに差し上げたお礼に自宅近くで描いたそうである。 忠太さんはその頃現在の第4小学校近くに住んでいたと母が話していた. 国立は昭和30年代は松林、クヌギ林が広がり、第4小学校の裏手は一面麦畠が続いていた。 話がそれるがその当時技術研究所の北にある国分寺の小学校には忌野清志郎が通っていたそうである. 本作は渡仏後の半抽象画とは全く異なり薄塗りのF8サイズの具象画である. サインはその後の単なる KIMURA ではなく CHUTA KIMURA である.
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季節は違いますが、同じ場所を写した写真.絵の方はもう少し右寄りでイーゼルを立てるので少し上から描いたようです. 2020-02-20更新 |